Partager

第二章「二つの顔」

Auteur: 佐薙真琴
last update Date de publication: 2025-12-07 05:54:10

 翌朝、真澄は早起きして蓮杖の家へ向かった。

 十一月の朝は冷え込んでいた。白い息を吐きながら、真澄は住宅街を歩く。昨夜はほとんど眠れなかった。これから始まる生活への期待と不安が入り混じり、一晩中頭の中をぐるぐると回っていた。

 鳳凰院家の門の前に立つ。インターホンを押すと、すぐに蓮杖の声が聞こえた。

「はい、どうぞ」

 門が開く。玄関まで歩いていくと、蓮杖が出迎えてくれた。

 しかし、そこにいたのは昨日とはまったく違う蓮杖だった。

 髪はぼさぼさで、目は腫れぼったく、白いTシャツとスウェットパンツという、およそ「歌舞伎役者」とは程遠い姿。

「おはようございます……」

 蓮杖の声は低くしゃがれていた。明らかに寝起きだ。

「お、おはようございます」

 真澄は動揺を隠せなかった。これが、あの舞台で美しく舞う蓮杖と同じ人物なのだろうか。

「すみません、こんな格好で。朝は弱いんです」

 蓮杖は気まずそうに頭を掻いた。その仕草が妙に男性的で、真澄は戸惑った。

「い、いえ。では、朝食の準備をしますね」

「お願いします。コーヒーも淹れてもらえますか? 豆は台所の棚に」

「コーヒーですか?」

「ええ。目が覚めないと稽古に行けないので」

 真澄は台所へ向かった。棚を開けると、確かに高級そうなコーヒー豆の袋がいくつも並んでいる。ブルーマウンテン、キリマンジャロ、モカ。

「どれを使えば……」

「今日はブルーマウンテンで」

 後ろから蓮杖の声がした。振り返ると、彼が台所の入り口に立っていた。

「コーヒーには少しうるさいんです。豆の挽き方も、淹れ方も。母がコーヒー好きで、子供の頃からずっと一緒に飲んでいたので」

「そうなんですか」

 真澄はコーヒー豆を手に取った。豊かな香りが広がる。

「ミルはそこに。中挽きでお願いします」

 蓮杖の指示に従って、真澄はコーヒー豆を挽いた。ゴリゴリという音が台所に響く。

「良い音ですね」

 蓮杖が微笑んだ。その笑顔は、舞台で見せる優美な笑顔とは違う、どこか子供っぽい無邪気な笑顔だった。

 真澄はコーヒーを淹れた。ドリップする湯の温度にも気を配る。蓮杖はその様子を黙って見ていた。

「できました」

「ありがとうございます」

 二人は居間に戻り、コーヒーを飲んだ。蓮杖は一口飲んで、満足そうに目を細めた。

「美味しい。門野さん、コーヒーの淹れ方を知っているんですね」

「父がコーヒー好きで、小さい頃から教えてもらっていたんです」

「そうですか。それなら、これから毎朝お願いできますね」

 蓮杖は嬉しそうに笑った。真澄も笑顔で応えたが、内心は複雑だった。

 目の前にいるのは、本当に蓮杖なのだろうか。舞台で見る彼は、優雅で完璧で、この世のものとは思えない美しさだった。しかし今、目の前にいるのは、寝ぼけ眼でコーヒーを飲む、ごく普通の男性だ。

「門野さん?」

「はい?」

「何か考え事ですか?」

「いえ、その……」

 真澄は言葉を濁した。蓮杖は少し首を傾げてから、コーヒーカップを置いた。

「もしかして、私の普段の姿にがっかりしましたか?」

「え?」

「舞台と全然違うでしょう。ファンの方は、たいてい幻滅するんです。『女形なのに、こんなに男らしいなんて』って」

 蓮杖の声には、かすかな自嘲が混じっていた。真澄は慌てて首を振った。

「そんなことありません! ただ……少し驚いただけで」

「正直で良いですよ。私も分かっていますから。舞台の上の私と、普段の私は別人みたいなものです」

 蓮杖は窓の外を見た。庭の木々が風に揺れている。

「女形は、舞台の上だけの存在なんです。一歩舞台を降りれば、ただの男。そのギャップに、母以外の誰も慣れてくれなかった」

 その言葉には、深い孤独が滲んでいた。真澄は胸が締め付けられた。

「私は……慣れます」

「え?」

「どちらの蓮杖さんも、本当の蓮杖さんなんですよね。だったら、両方を知ることができるのは、むしろ幸せなことだと思います」

 真澄は自分でも驚くほど素直に言葉が出た。蓮杖は目を見開いて真澄を見つめた。

「……ありがとうございます」

 彼の声は、わずかに震えていた。

---

 朝食の後、蓮杖は稽古に出かけた。真澄は一人、家に残って掃除を始めた。

 家の中は広く、掃除のしがいがあった。しかし、蓮杖の私室は散らかっていた。脱ぎ捨てられた服、開きっぱなしの本、空になったペットボトル。

「これは……」

 真澄は苦笑した。完璧な女形としての蓮杖の姿と、この散らかった部屋。そのギャップが、妙に人間らしくて愛おしかった。

 丁寧に掃除をしていく。本を本棚に戻し、服を洗濯籠に入れ、床に掃除機をかける。窓を開けると、十一月の冷たい空気が部屋を満たした。

 本棚を整理していると、一冊のアルバムが目に入った。表紙には「鳳凰院家」と書かれている。

 中を開くと、古い写真が並んでいた。着物を着た男性と女性。その間に、幼い蓮杖らしき男の子。家族写真だ。

 真澄はページをめくった。少年時代の蓮杖。初舞台の写真。母親と並んで笑っている写真。

 そして、最後のページに、一枚の写真があった。

 病院のベッドに横たわる女性。その手を握る蓮杖。女性は痩せ細っていて、しかし優しく微笑んでいた。

 真澄は胸が痛んだ。これがお母様の最後の写真なのだろう。

 アルバムを閉じて、そっと本棚に戻した。

---

 夕方、蓮杖が帰ってきた。

 玄関の扉が開く音がして、真澄は慌てて迎えに出た。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 蓮杖は疲れた顔をしていた。肩で息をしている。稽古は相当ハードだったようだ。

「大丈夫ですか?」

「ええ、いつものことです。今日は『娘道成寺』の稽古で。動きが多いので」

 蓮杖は居間に入り、ソファに倒れ込んだ。真澄は台所からお茶を持ってきた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 蓮杖は湯呑みを受け取り、一気に飲み干した。それから、大きく息を吐く。

「ふぅ……生き返る」

 その仕草が、あまりにも男性的で、真澄は改めて驚いた。舞台で見る蓮杖は、一挙手一投足が女性そのものだった。しかし今、目の前にいるのは、疲れ切った男性だ。

「お風呂を沸かしましょうか?」

「お願いします。汗をかいたので」

 真澄は風呂場へ向かった。風呂を沸かしながら、自分の心の動揺を整理しようとした。

 これで良いのだろうか。

 自分は蓮杖の「女形」としての姿を愛してきた。完璧で美しく、この世のものとは思えない存在として。しかし今、見ているのは、その裏側だ。汗をかき、疲れ、ぞんざいに言葉を発する、生身の男性。

 それでも――真澄は気づいた――自分は嫌悪を感じていない。

 むしろ、この「素の蓮杖」にも、不思議と惹かれている。完璧ではない彼の姿が、かえって親しみやすく、愛おしく感じられる。

 風呂が沸いた。真澄は居間に戻った。

「お風呂、どうぞ」

「ありがとう。じゃあ、先に入ってくるね」

 蓮杖は立ち上がり、風呂場へ向かった。その背中は、少し猫背だった。舞台では決して見せない、疲れた男の背中。

 真澄は夕食の準備を始めた。冷蔵庫の中身は相変わらず少なかったが、何とか簡単な料理を作った。豚の生姜焼き、味噌汁、ご飯。

 蓮杖が風呂から上がってきた。髪が濡れていて、部屋着のジャージ姿。まるで大学生のようだ。

「良い匂い」

「簡単なものですが」

「十分です。久しぶりに、ちゃんとした夕食を食べられる」

 二人は食卓についた。蓮杖は生姜焼きを一口食べて、顔をほころばせた。

「美味しい。本当に美味しい」

「そんなに褒めないでください。恥ずかしいです」

「いや、本当に。母が作ってくれた夕食を思い出します」

 蓮杖は嬉しそうに食べ続けた。その姿を見て、真澄は胸が温かくなった。

 食事の後、二人は居間でお茶を飲んだ。蓮杖はソファに深く腰掛け、目を閉じている。

「疲れていますね」

「ええ。でも、気持ちの良い疲れです。今日の稽古は良かった。師匠にも褒められました」

「それは良かったですね」

「門野さん、私の稽古、見に来ませんか?」

「え?」

「稽古場は一般には非公開ですが、私の知り合いということで入れると思います。どうですか?」

 真澄は驚いた。蓮杖の稽古を見られる。ファンとして、これ以上の幸せはない。

「ぜひ、お願いします」

「では、明後日。稽古場で待っています」

 蓮杖は優しく微笑んだ。その笑顔は、舞台で見せる作られた笑顔ではなく、心からの笑顔だった。

 真澄は思った。自分は今、蓮杖の「二つの顔」を見ている。舞台の完璧な女形と、日常の不完全な男性。

 そのどちらも、本当の蓮杖なのだ。

 そして、そのどちらも――真澄は自分の心に正直になった――愛おしい。

 推しとしての蓮杖だけでなく、生身の人間としての蓮杖にも、自分は惹かれ始めている。

 それは、ファンの域を超えた感情だった。

 真澄は湯呑みを握りしめた。これから、どうなるのだろう。この気持ちは、どこへ向かうのだろう。

 窓の外では、夜の闇が深まっていた。

---

 二日後、真澄は蓮杖の稽古場を訪れた。

 都内の古い建物の一室。木造の床が軋み、天井には古い梁が走っている。部屋の奥には大きな鏡があり、その前で数人の役者が稽古をしていた。

「門野さん、こちらへ」

 蓮杖が手招きした。彼はすでに稽古着に着替えていて、髪を後ろで束ねている。

「ここに座って見ていてください」

 真澄は部屋の隅に座った。他の稽古生たちが真澄を見て、少し驚いた顔をしている。女性が稽古場に入るのは珍しいのだろう。

「それでは、始めます」

 年配の男性――師匠だろう――が声をかけた。三味線の音色が響き、稽古が始まった。

 蓮杖が動き出した瞬間、真澄は息を飲んだ。

 彼の動きが、一瞬で「女性」に変わった。腰の落とし方、手の動かし方、目線の送り方。すべてが優美で、しなやかで、完璧だった。

 これが『娘道成寺』の舞だ。白拍子花子が鐘の前で恋心を舞う場面。蓮杖の手が空中を滑るように動き、足が床を静かに踏む。

 真澄は魅了された。これこそ、自分が愛してきた蓮杖の姿だ。完璧な女形。

 しかし――真澄は気づいた――今の自分は、以前とは違う目で蓮杖を見ている。

 舞台の完璧さの裏に、どれだけの努力があるか。毎日の稽古で、どれだけ体を痛めているか。その疲れた体で、どうやってこの美しさを保っているか。

 真澄は、蓮杖の「素顔」を知ってしまった。だからこそ、今この瞬間の彼の輝きが、以前よりもずっと尊く感じられる。

 稽古が終わった。蓮杖は汗を拭いながら、真澄の元へやってきた。

「どうでしたか?」

「素晴らしかったです。本当に」

「ありがとうございます。まだまだ未熟ですが」

 蓮杖は謙虚に笑った。その笑顔を見て、真澄は確信した。

 自分は、蓮杖の「すべて」を愛している。

 舞台の完璧な姿も、日常の不完全な姿も。女形としての彼も、男性としての彼も。

 それは、もはやファンの感情ではなかった。

 もっと深い、もっと個人的な感情。

 真澄は自分の胸に手を当てた。心臓が激しく鳴っている。

 これは、恋なのだろうか。

 推しに対する憧れが、いつの間にか、一人の人間に対する恋に変わっていたのだろうか。

 真澄は混乱していた。しかし同時に、この気持ちを否定したくなかった。

 蓮杖が手を差し出した。

「帰りましょう。今日は鍋にしませんか? 寒くなってきたし」

「はい、良いですね」

 真澄は蓮杖の手を取った。その手は、もう冷たくなかった。温かかった。

 二人は並んで稽古場を後にした。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~   エピローグ「世界で一番の特等席」

     それから半年が過ぎた。 十二月、再び師走がやってきた。真澄と蓮杖が出会ってから、ちょうど一年が経った。 真澄は歌舞伎座の広報部門で、順調にキャリアを積んでいた。歌舞伎の魅力を多くの人に伝える仕事は、やりがいがあった。 蓮杖は、若手女形のホープとして、さらに活躍の場を広げていた。テレビのドキュメンタリー番組にも出演し、歌舞伎の世界を広く知らしめることに貢献していた。 二人の生活は、穏やかで幸せだった。--- ある夜、真澄は居間で一人、考え事をしていた。 蓮杖は稽古に出ていて、まだ帰ってきていない。 真澄は窓の外を見た。庭の木々が、冬の風に揺れている。 一年前の今日、自分は蓮杖と出会った。 あの日、扇子を拾ったことが、すべての始まりだった。 推しだった蓮杖が、今は夫になっている。 それは、夢のような出来事だった。 玄関の扉が開く音がした。「ただいま」 蓮杖の声だ。真澄は立ち上がって迎えに出た。「おかえりなさい」「ただいま、真澄」 蓮杖は真澄を抱きしめた。その体は冷たかった。「寒かったでしょう。お風呂沸かすね」「ありがとう」 蓮杖は真澄の頬にキスをした。--- 夕食の後、二人はソファに座ってお茶を飲んだ。「真澄、覚えてる? 一年前の今日」「ええ。私たちが出会った日」「あの日から、僕の人生が変わった」 蓮杖は真澄の手を取った。「真澄がいてくれたから、僕は自分自身を見つけられた。完璧である必要なんてない。ただ、自分らしくあればいい。それを教えてくれた」「私も、蓮杖に出会えて幸せよ」 真澄は微笑んだ。「推しだった蓮杖が、今は夫になっている。これ以上の幸せはないわ」「これからも、ずっと一緒にいようね」「ええ。舞台で輝く蓮杖も、日常で私の隣にいる蓮杖も、す

  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~   第六章「二人の舞台」

     新春大歌舞伎の公演は大成功に終わった。 初日のハプニングがあったにもかかわらず――いや、むしろそれがあったからこそ――蓮杖の演技は高く評価された。「鳳凰院家の新しい風」「若手女形の希望」。新聞や雑誌の評価は軒並み高かった。 しかし、蓮杖自身は、そうした外部の評価よりも、もっと大切なものを得ていた。 それは、「自分自身であることの自由」だった。--- 二月に入り、真澄は会社を辞めることを決意した。 蓮杖との生活を続けるには、もっと時間が必要だった。そして、真澄自身も、新しい道を歩みたいと思っていた。「本当にいいの?」 辞表を出した後、葵が心配そうに尋ねた。「うん。もう決めたから」「新しい仕事、見つかったの?」「ええ。知り合いの伝手で、歌舞伎関係の仕事を紹介してもらったの」 それは本当だった。蓮杖のマネージャーが、真澄を気に入り、歌舞伎座の広報部門で働かないかと誘ってくれたのだ。「歌舞伎? 真澄、そんなに詳しかったっけ?」「最近、すごく興味が出てきて。勉強してるんだ」 真澄は笑った。葵は少し不思議そうな顔をしていたが、最後には微笑んだ。「そっか。じゃあ、頑張ってね。でも、たまには会おうね」「もちろん」 二人は抱き合った。真澄は胸が熱くなった。葵は良い友人だ。いつか、蓮杖のことも紹介したい。--- 三月、桜の季節が訪れた。 真澄は正式に蓮杖の家に引っ越した。自分のアパートを引き払い、鳳凰院家の一室を借りることにしたのだ。「本当にいいの? 一緒に住んで」 引っ越しの日、蓮杖が心配そうに尋ねた。「もちろん。私、ここで蓮杖と暮らしたいの」「でも、僕の稽古や公演で、迷惑かけるかもしれない」「迷惑なんかじゃないわ。むしろ、そばにいたい」 真澄は微笑んだ。蓮杖も笑顔で応えた。「ありがとう、真澄。これから、よろしくね」「こ

  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~   幕間「SNSバズ」

     真澄が何気なく投稿した写真がバズった話。 ある休日の午後、真澄と蓮杖は庭で過ごしていた。 十一月の穏やかな日差しの中、二人はベンチに座ってお茶を飲んでいた。タマも一緒で、蓮杖の膝の上で眠っている。「良い天気だね」 蓮杖が言った。真澄も頷く。「本当に。こんな日は、ずっとここにいたい」「僕もだよ」 蓮杖は真澄の肩に頭を預けた。真澄は微笑んで、蓮杖の髪を撫でる。 その瞬間、真澄はふと思いついて、携帯を取り出した。「写真、撮ってもいい?」「うん」 真澄はカメラを構えた。しかし、蓮杖の顔は写らないように、後ろ姿だけを撮った。庭の木々を背景に、ベンチに座る二人のシルエット。タマも一緒に写っている。「綺麗な写真だね」 蓮杖が覗き込んできた。真澄は微笑む。「この写真、SNSに上げてもいい? もちろん、蓮杖の顔は写ってないから」「構わないよ。どうせ誰も気づかないだろうし」 真澄は写真にフィルターをかけて、インスタに投稿した。 キャプションには「穏やかな午後」とだけ書いた。--- しかし、この投稿が予想外の反響を呼んだ。 最初は数人の友達が「いいね」をしただけだった。しかし、数時間後、真澄の携帯が鳴り止まなくなった。 通知が次々と届く。「いいね」の数が数百、数千と増えていく。「え……なにこれ」 真澄は驚いた。なぜこんなにバズっているのだろう。 コメント欄を見ると、驚くべきことが書かれていた。「これ、鳳凰院蓮杖じゃない?」「後ろ姿だけど、絶対蓮杖だよ」「庭の感じが鳳凰院家っぽい」「蓮杖、彼女いたんだ!」 真澄は慌てた。「蓮杖、大変!」 蓮杖も携帯を見て、目を丸くした。「えっ……バズってる」「どうしよう。みんな、あなただ

  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~   第五章「花道の決断」

     それから一週間が過ぎた。 真澄と蓮杖の関係は、表面上は何も変わらなかった。真澄は相変わらず毎日蓮杖の家に通い、彼の世話をしている。しかし、二人の間には、確かな変化があった。 恋人としての距離感。 蓮杖は以前より真澄に甘えるようになった。稽古から帰ると、真澄の肩に頭を預けて疲れを癒す。夕食の後は、二人でソファに座り、蓮杖の手が自然と真澄の手を探す。 真澄もまた、蓮杖への接し方が変わった。以前のような「推し」への遠慮がなくなり、もっと自然に、もっと親密に接するようになった。 しかし、真澄の心には、まだ一つの疑問が残っていた。 自分は本当に、蓮杖の「すべて」を受け入れられているのだろうか。--- 十二月も半ばを過ぎた頃、蓮杖が大きなニュースを持ち帰ってきた。「真澄、聞いて。来月、新春大歌舞伎で大役をもらったんだ」 夕食の席で、蓮杖は興奮気味に言った。「大役?」「ああ。『京鹿子娘道成寺』の清姫を、単独で演じることになった」 真澄は驚いた。『京鹿子娘道成寺』は、女形にとって最も重要な演目の一つだ。清姫という、恋に狂って蛇に変身する女性を演じる。技術的にも、精神的にも、非常に難しい役だ。「すごい……おめでとうございます!」「ありがとう。でも、正直言って、不安なんだ」 蓮杖の笑顔が、少し曇った。「この役は、父も、祖父も演じてきた。鳳凰院家の伝統を背負う役なんだ。もし失敗したら……」「失敗なんかしません」 真澄は力強く言った。「蓮杖の舞は、誰よりも美しい。絶対に成功します」「真澄……」 蓮杖は真澄の手を握った。その手が、わずかに震えている。「でも、もし僕が失敗したら、真澄はどう思う? がっかりする?」「そんなわけないじゃないですか」 真澄は首を振った。「蓮杖が失敗したって、私の気持ち

  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~   幕間「歌舞伎の世界」

     真澄が蓮杖と暮らすうちに学んだ、歌舞伎の深い世界。 真澄が初めて蓮杖の稽古場を訪れたとき、衝撃を受けた。 想像していた以上に、歌舞伎の世界は厳格で、伝統に満ちていた。--- 稽古場は古い木造の建物だった。床はすり減り、天井の梁には長年の煤が付いている。 師匠が座る上座には、神棚が祀られている。稽古生たちは、必ず神棚に一礼してから稽古を始める。 三味線の音色が響く中、蓮杖が舞う。 その動きは、一つ一つが意味を持っていた。 手の角度、指の曲げ方、目線の送り方。すべてが計算され、何百年もの伝統の中で磨かれてきた技術だった。--- 真澄は、蓮杖から歌舞伎の基礎を教えてもらった。「女形はね、ただ女性を演じるだけじゃないんだ」 ある夜、蓮杖が説明してくれた。「理想化された女性、というか。現実の女性以上に女性らしい存在を表現するんだ」「理想化……」「そう。だから、動きは実際の女性よりもずっと繊細で、優美でなければならない」 蓮杖は手本を見せてくれた。 扇を持つ手の動き。それだけで、女性の優雅さ、色気、恥じらい、すべてが表現されていた。「すごい……」 真澄は息を飲んだ。--- 化粧についても、蓮杖は詳しく教えてくれた。 女形の化粧は、「白塗り」と呼ばれる。顔全体を白く塗り、目元に紅を差し、眉を描く。「これがね、すごく時間がかかるんだ」 蓮杖は鏡の前で、実際に化粧をしながら説明してくれた。「まず、油を塗って、その上に白粉を重ねる。何層も重ねて、陶器のような質感を出すんだ」 真澄は魅了された。蓮杖の顔が、少しずつ「女形」に変わっていく様子を、間近で見ることができた。「目元はね、特に重要。女形の色気は、目で表現するから」 蓮杖は目尻に紅を差した。それだけで、印象が大きく変わった。

  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~   第四章「楽屋の告白」

     師走公演の初日。歌舞伎座は観客で埋め尽くされていた。 真澄は三階席に座っていた。以前と同じ、一番後ろの安い席。しかし、今の真澄にとって、この席は特別な意味を持っていた。 ここから、蓮杖の舞台を見る。彼が完璧な女形として輝く姿を。 そして、真澄だけが知っている。その輝きの裏に、どれだけの不安と努力があるかを。 幕が開いた。 三味線の音色が響き、舞台に光が満ちる。花道から、白拍子の姿をした蓮杖が登場した。 真澄は息を飲んだ。 美しい。圧倒的に美しい。 蓮杖の纏う打掛は紅白の鹿の子模様で、金糸が照明に煌めいている。白塗りの顔に紅を差した姿は、まさに人形のよう。しかし、その動きは生きている。しなやかで、優美で、魂が宿っている。 『娘道成寺』の舞が始まった。 白拍子花子が、道成寺の鐘の前で恋心を舞う。扇を持った手が空中を滑り、足が床を静かに踏む。その一つ一つの動きが、計算されていて、しかし自然で、見る者を魅了する。 真澄は涙が出そうになった。 素晴らしい。本当に素晴らしい。 これが、自分の愛する蓮杖の舞台だ。 しかし、真澄の心は複雑だった。 舞台の蓮杖は完璧だ。しかし、真澄は知っている。その完璧さの裏で、彼がどれだけ苦しんでいるかを。 昨日の朝、不安で震えていた蓮杖。「完璧でなければならない」という重圧に押し潰されそうになっていた彼。 真澄は、舞台の蓮杖と、普段の蓮杖の両方を知っている。 そのどちらも、愛おしい。 舞が終わり、幕が下りた。観客から大きな拍手が湧き起こる。真澄も必死に拍手した。 蓮杖、素晴らしかった。本当に素晴らしかった。--- 公演が終わり、真澄は楽屋口へ向かった。 蓮杖から、「公演が終わったら楽屋に来てほしい」と頼まれていた。真澄は緊張しながら受付で名前を告げると、案内されて楽屋の奥へと進んだ。 廊下には独特の匂いが漂っていた。白粉、鬢付け油、お香。歌舞伎の楽屋特有の、濃密

  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~   幕間「銭湯のおばあちゃん」

     真澄が蓮杖の家に通い始めて一ヶ月が経った頃の話。 ある日の午後、真澄は近所を散歩していた。蓮杖は稽古に出ていて、家の掃除も一段落ついたので、少し外の空気を吸いたくなったのだ。 住宅街を歩いていると、古い銭湯を見つけた。「松の湯」という看板が掛かっている。木造の建物で、煙突からは湯気が立ち上っていた。「懐かしい……」 真澄は子供の頃、祖母と一緒に銭湯に通っていた。その記憶が蘇ってきた。 ふと、入ってみたくなった。蓮杖の家には立派な風呂があるが、たまには銭湯も良いかもしれない。 暖簾をくぐると、番台におばあちゃんが座っていた。「いらっしゃい」 おばあちゃんは優しく微笑んだ。真澄

  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~   第一章「偶然の扇子」

     門野真澄が初めて鳳凰院蓮杖を観たのは、二年前の春だった。 歌舞伎座の三階席、一番後ろの安い席。会社の先輩に誘われて半ば義理で訪れた舞台で、真澄の人生は一変した。花道から登場した蓮杖は、この世のものとは思えない美しさだった。白塗りの顔に紅を差し、金糸で鶴が織り込まれた打掛を纏った姿は、まさに「生きた人形」という表現が相応しかった。 それ以来、真澄は蓮杖の熱烈なファンになった。公演があれば必ず足を運び、チケットが取れなければ当日券の列に並んだ。蓮杖の演じる『娘道成寺』の白拍子花子、『京鹿子娘道成寺』の清姫。彼の女形は、優美さと妖艶さが完璧なバラ

  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~   幕間「猫のタマ」

     真澄が蓮杖の家で飼い始めた猫の話。 ある雨の夜、真澄は帰り道で子猫を見つけた。 段ボール箱の中で、小さな三毛猫が震えていた。まだ生後数ヶ月だろう。濡れた体で、か細く鳴いている。「可哀想に……」 真澄は子猫を抱き上げた。温かい。小さな命が、自分の腕の中で震えている。「このままじゃ死んじゃうわ」 真澄は迷わず、子猫を連れて蓮杖の家へ向かった。--- 家に着くと、蓮杖が驚いた顔で出迎えた。「真澄、それは…&h

  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~    幕間「真澄の推し活の記憶」

     これは真澄が蓮杖のファンだった頃の思い出。 真澄が初めて蓮杖を観たのは、二年前の春だった。 会社の先輩、佐々木さんに誘われて、歌舞伎座に行った日。真澄は正直、あまり乗り気ではなかった。「歌舞伎って、古臭くない?」 そう思っていた。 しかし、舞台が始まった瞬間、真澄の考えは一変した。--- 花道から登場した蓮杖。白拍子の姿で、優雅に歩く。 その美しさに、真澄は息を飲んだ。 これは、本当に人間なのだろうか。人形のように完璧で、しかし生命力に満ちてい

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status