Masuk翌朝、真澄は早起きして蓮杖の家へ向かった。
十一月の朝は冷え込んでいた。白い息を吐きながら、真澄は住宅街を歩く。昨夜はほとんど眠れなかった。これから始まる生活への期待と不安が入り混じり、一晩中頭の中をぐるぐると回っていた。
鳳凰院家の門の前に立つ。インターホンを押すと、すぐに蓮杖の声が聞こえた。
「はい、どうぞ」
門が開く。玄関まで歩いていくと、蓮杖が出迎えてくれた。
しかし、そこにいたのは昨日とはまったく違う蓮杖だった。
髪はぼさぼさで、目は腫れぼったく、白いTシャツとスウェットパンツという、およそ「歌舞伎役者」とは程遠い姿。
「おはようございます……」
蓮杖の声は低くしゃがれていた。明らかに寝起きだ。
「お、おはようございます」
真澄は動揺を隠せなかった。これが、あの舞台で美しく舞う蓮杖と同じ人物なのだろうか。
「すみません、こんな格好で。朝は弱いんです」
蓮杖は気まずそうに頭を掻いた。その仕草が妙に男性的で、真澄は戸惑った。
「い、いえ。では、朝食の準備をしますね」
「お願いします。コーヒーも淹れてもらえますか? 豆は台所の棚に」
「コーヒーですか?」
「ええ。目が覚めないと稽古に行けないので」
真澄は台所へ向かった。棚を開けると、確かに高級そうなコーヒー豆の袋がいくつも並んでいる。ブルーマウンテン、キリマンジャロ、モカ。
「どれを使えば……」
「今日はブルーマウンテンで」
後ろから蓮杖の声がした。振り返ると、彼が台所の入り口に立っていた。
「コーヒーには少しうるさいんです。豆の挽き方も、淹れ方も。母がコーヒー好きで、子供の頃からずっと一緒に飲んでいたので」
「そうなんですか」
真澄はコーヒー豆を手に取った。豊かな香りが広がる。
「ミルはそこに。中挽きでお願いします」
蓮杖の指示に従って、真澄はコーヒー豆を挽いた。ゴリゴリという音が台所に響く。
「良い音ですね」
蓮杖が微笑んだ。その笑顔は、舞台で見せる優美な笑顔とは違う、どこか子供っぽい無邪気な笑顔だった。
真澄はコーヒーを淹れた。ドリップする湯の温度にも気を配る。蓮杖はその様子を黙って見ていた。
「できました」
「ありがとうございます」
二人は居間に戻り、コーヒーを飲んだ。蓮杖は一口飲んで、満足そうに目を細めた。
「美味しい。門野さん、コーヒーの淹れ方を知っているんですね」
「父がコーヒー好きで、小さい頃から教えてもらっていたんです」
「そうですか。それなら、これから毎朝お願いできますね」
蓮杖は嬉しそうに笑った。真澄も笑顔で応えたが、内心は複雑だった。
目の前にいるのは、本当に蓮杖なのだろうか。舞台で見る彼は、優雅で完璧で、この世のものとは思えない美しさだった。しかし今、目の前にいるのは、寝ぼけ眼でコーヒーを飲む、ごく普通の男性だ。
「門野さん?」
「はい?」
「何か考え事ですか?」
「いえ、その……」
真澄は言葉を濁した。蓮杖は少し首を傾げてから、コーヒーカップを置いた。
「もしかして、私の普段の姿にがっかりしましたか?」
「え?」
「舞台と全然違うでしょう。ファンの方は、たいてい幻滅するんです。『女形なのに、こんなに男らしいなんて』って」
蓮杖の声には、かすかな自嘲が混じっていた。真澄は慌てて首を振った。
「そんなことありません! ただ……少し驚いただけで」
「正直で良いですよ。私も分かっていますから。舞台の上の私と、普段の私は別人みたいなものです」
蓮杖は窓の外を見た。庭の木々が風に揺れている。
「女形は、舞台の上だけの存在なんです。一歩舞台を降りれば、ただの男。そのギャップに、母以外の誰も慣れてくれなかった」
その言葉には、深い孤独が滲んでいた。真澄は胸が締め付けられた。
「私は……慣れます」
「え?」
「どちらの蓮杖さんも、本当の蓮杖さんなんですよね。だったら、両方を知ることができるのは、むしろ幸せなことだと思います」
真澄は自分でも驚くほど素直に言葉が出た。蓮杖は目を見開いて真澄を見つめた。
「……ありがとうございます」
彼の声は、わずかに震えていた。
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朝食の後、蓮杖は稽古に出かけた。真澄は一人、家に残って掃除を始めた。
家の中は広く、掃除のしがいがあった。しかし、蓮杖の私室は散らかっていた。脱ぎ捨てられた服、開きっぱなしの本、空になったペットボトル。
「これは……」
真澄は苦笑した。完璧な女形としての蓮杖の姿と、この散らかった部屋。そのギャップが、妙に人間らしくて愛おしかった。
丁寧に掃除をしていく。本を本棚に戻し、服を洗濯籠に入れ、床に掃除機をかける。窓を開けると、十一月の冷たい空気が部屋を満たした。
本棚を整理していると、一冊のアルバムが目に入った。表紙には「鳳凰院家」と書かれている。
中を開くと、古い写真が並んでいた。着物を着た男性と女性。その間に、幼い蓮杖らしき男の子。家族写真だ。
真澄はページをめくった。少年時代の蓮杖。初舞台の写真。母親と並んで笑っている写真。
そして、最後のページに、一枚の写真があった。
病院のベッドに横たわる女性。その手を握る蓮杖。女性は痩せ細っていて、しかし優しく微笑んでいた。
真澄は胸が痛んだ。これがお母様の最後の写真なのだろう。
アルバムを閉じて、そっと本棚に戻した。
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夕方、蓮杖が帰ってきた。
玄関の扉が開く音がして、真澄は慌てて迎えに出た。
「お帰りなさい」
「ただいま」
蓮杖は疲れた顔をしていた。肩で息をしている。稽古は相当ハードだったようだ。
「大丈夫ですか?」
「ええ、いつものことです。今日は『娘道成寺』の稽古で。動きが多いので」
蓮杖は居間に入り、ソファに倒れ込んだ。真澄は台所からお茶を持ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
蓮杖は湯呑みを受け取り、一気に飲み干した。それから、大きく息を吐く。
「ふぅ……生き返る」
その仕草が、あまりにも男性的で、真澄は改めて驚いた。舞台で見る蓮杖は、一挙手一投足が女性そのものだった。しかし今、目の前にいるのは、疲れ切った男性だ。
「お風呂を沸かしましょうか?」
「お願いします。汗をかいたので」
真澄は風呂場へ向かった。風呂を沸かしながら、自分の心の動揺を整理しようとした。
これで良いのだろうか。
自分は蓮杖の「女形」としての姿を愛してきた。完璧で美しく、この世のものとは思えない存在として。しかし今、見ているのは、その裏側だ。汗をかき、疲れ、ぞんざいに言葉を発する、生身の男性。
それでも――真澄は気づいた――自分は嫌悪を感じていない。
むしろ、この「素の蓮杖」にも、不思議と惹かれている。完璧ではない彼の姿が、かえって親しみやすく、愛おしく感じられる。
風呂が沸いた。真澄は居間に戻った。
「お風呂、どうぞ」
「ありがとう。じゃあ、先に入ってくるね」
蓮杖は立ち上がり、風呂場へ向かった。その背中は、少し猫背だった。舞台では決して見せない、疲れた男の背中。
真澄は夕食の準備を始めた。冷蔵庫の中身は相変わらず少なかったが、何とか簡単な料理を作った。豚の生姜焼き、味噌汁、ご飯。
蓮杖が風呂から上がってきた。髪が濡れていて、部屋着のジャージ姿。まるで大学生のようだ。
「良い匂い」
「簡単なものですが」
「十分です。久しぶりに、ちゃんとした夕食を食べられる」
二人は食卓についた。蓮杖は生姜焼きを一口食べて、顔をほころばせた。
「美味しい。本当に美味しい」
「そんなに褒めないでください。恥ずかしいです」
「いや、本当に。母が作ってくれた夕食を思い出します」
蓮杖は嬉しそうに食べ続けた。その姿を見て、真澄は胸が温かくなった。
食事の後、二人は居間でお茶を飲んだ。蓮杖はソファに深く腰掛け、目を閉じている。
「疲れていますね」
「ええ。でも、気持ちの良い疲れです。今日の稽古は良かった。師匠にも褒められました」
「それは良かったですね」
「門野さん、私の稽古、見に来ませんか?」
「え?」
「稽古場は一般には非公開ですが、私の知り合いということで入れると思います。どうですか?」
真澄は驚いた。蓮杖の稽古を見られる。ファンとして、これ以上の幸せはない。
「ぜひ、お願いします」
「では、明後日。稽古場で待っています」
蓮杖は優しく微笑んだ。その笑顔は、舞台で見せる作られた笑顔ではなく、心からの笑顔だった。
真澄は思った。自分は今、蓮杖の「二つの顔」を見ている。舞台の完璧な女形と、日常の不完全な男性。
そのどちらも、本当の蓮杖なのだ。
そして、そのどちらも――真澄は自分の心に正直になった――愛おしい。
推しとしての蓮杖だけでなく、生身の人間としての蓮杖にも、自分は惹かれ始めている。
それは、ファンの域を超えた感情だった。
真澄は湯呑みを握りしめた。これから、どうなるのだろう。この気持ちは、どこへ向かうのだろう。
窓の外では、夜の闇が深まっていた。
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二日後、真澄は蓮杖の稽古場を訪れた。
都内の古い建物の一室。木造の床が軋み、天井には古い梁が走っている。部屋の奥には大きな鏡があり、その前で数人の役者が稽古をしていた。
「門野さん、こちらへ」
蓮杖が手招きした。彼はすでに稽古着に着替えていて、髪を後ろで束ねている。
「ここに座って見ていてください」
真澄は部屋の隅に座った。他の稽古生たちが真澄を見て、少し驚いた顔をしている。女性が稽古場に入るのは珍しいのだろう。
「それでは、始めます」
年配の男性――師匠だろう――が声をかけた。三味線の音色が響き、稽古が始まった。
蓮杖が動き出した瞬間、真澄は息を飲んだ。
彼の動きが、一瞬で「女性」に変わった。腰の落とし方、手の動かし方、目線の送り方。すべてが優美で、しなやかで、完璧だった。
これが『娘道成寺』の舞だ。白拍子花子が鐘の前で恋心を舞う場面。蓮杖の手が空中を滑るように動き、足が床を静かに踏む。
真澄は魅了された。これこそ、自分が愛してきた蓮杖の姿だ。完璧な女形。
しかし――真澄は気づいた――今の自分は、以前とは違う目で蓮杖を見ている。
舞台の完璧さの裏に、どれだけの努力があるか。毎日の稽古で、どれだけ体を痛めているか。その疲れた体で、どうやってこの美しさを保っているか。
真澄は、蓮杖の「素顔」を知ってしまった。だからこそ、今この瞬間の彼の輝きが、以前よりもずっと尊く感じられる。
稽古が終わった。蓮杖は汗を拭いながら、真澄の元へやってきた。
「どうでしたか?」
「素晴らしかったです。本当に」
「ありがとうございます。まだまだ未熟ですが」
蓮杖は謙虚に笑った。その笑顔を見て、真澄は確信した。
自分は、蓮杖の「すべて」を愛している。
舞台の完璧な姿も、日常の不完全な姿も。女形としての彼も、男性としての彼も。
それは、もはやファンの感情ではなかった。
もっと深い、もっと個人的な感情。
真澄は自分の胸に手を当てた。心臓が激しく鳴っている。
これは、恋なのだろうか。
推しに対する憧れが、いつの間にか、一人の人間に対する恋に変わっていたのだろうか。
真澄は混乱していた。しかし同時に、この気持ちを否定したくなかった。
蓮杖が手を差し出した。
「帰りましょう。今日は鍋にしませんか? 寒くなってきたし」
「はい、良いですね」
真澄は蓮杖の手を取った。その手は、もう冷たくなかった。温かかった。
二人は並んで稽古場を後にした。
真澄が蓮杖と暮らすうちに学んだ、歌舞伎の深い世界。 真澄が初めて蓮杖の稽古場を訪れたとき、衝撃を受けた。 想像していた以上に、歌舞伎の世界は厳格で、伝統に満ちていた。--- 稽古場は古い木造の建物だった。床はすり減り、天井の梁には長年の煤が付いている。 師匠が座る上座には、神棚が祀られている。稽古生たちは、必ず神棚に一礼してから稽古を始める。 三味線の音色が響く中、蓮杖が舞う。 その動きは、一つ一つが意味を持っていた。 手の角度、指の曲げ方、目線の送り方。すべてが計算され、何百年もの伝統の中で磨かれてきた技術だった。--- 真澄は、蓮杖から歌舞伎の基礎を教えてもらった。「女形はね、ただ女性を演じるだけじゃないんだ」 ある夜、蓮杖が説明してくれた。「理想化された女性、というか。現実の女性以上に女性らしい存在を表現するんだ」「理想化……」「そう。だから、動きは実際の女性よりもずっと繊細で、優美でなければならない」 蓮杖は手本を見せてくれた。 扇を持つ手の動き。それだけで、女性の優雅さ、色気、恥じらい、すべてが表現されていた。「すごい……」 真澄は息を飲んだ。--- 化粧についても、蓮杖は詳しく教えてくれた。 女形の化粧は、「白塗り」と呼ばれる。顔全体を白く塗り、目元に紅を差し、眉を描く。「これがね、すごく時間がかかるんだ」 蓮杖は鏡の前で、実際に化粧をしながら説明してくれた。「まず、油を塗って、その上に白粉を重ねる。何層も重ねて、陶器のような質感を出すんだ」 真澄は魅了された。蓮杖の顔が、少しずつ「女形」に変わっていく様子を、間近で見ることができた。「目元はね、特に重要。女形の色気は、目で表現するから」 蓮杖は目尻に紅を差した。それだけで、印象が大きく変わった。
師走公演の初日。歌舞伎座は観客で埋め尽くされていた。 真澄は三階席に座っていた。以前と同じ、一番後ろの安い席。しかし、今の真澄にとって、この席は特別な意味を持っていた。 ここから、蓮杖の舞台を見る。彼が完璧な女形として輝く姿を。 そして、真澄だけが知っている。その輝きの裏に、どれだけの不安と努力があるかを。 幕が開いた。 三味線の音色が響き、舞台に光が満ちる。花道から、白拍子の姿をした蓮杖が登場した。 真澄は息を飲んだ。 美しい。圧倒的に美しい。 蓮杖の纏う打掛は紅白の鹿の子模様で、金糸が照明に煌めいている。白塗りの顔に紅を差した姿は、まさに人形のよう。しかし、その動きは生きている。しなやかで、優美で、魂が宿っている。 『娘道成寺』の舞が始まった。 白拍子花子が、道成寺の鐘の前で恋心を舞う。扇を持った手が空中を滑り、足が床を静かに踏む。その一つ一つの動きが、計算されていて、しかし自然で、見る者を魅了する。 真澄は涙が出そうになった。 素晴らしい。本当に素晴らしい。 これが、自分の愛する蓮杖の舞台だ。 しかし、真澄の心は複雑だった。 舞台の蓮杖は完璧だ。しかし、真澄は知っている。その完璧さの裏で、彼がどれだけ苦しんでいるかを。 昨日の朝、不安で震えていた蓮杖。「完璧でなければならない」という重圧に押し潰されそうになっていた彼。 真澄は、舞台の蓮杖と、普段の蓮杖の両方を知っている。 そのどちらも、愛おしい。 舞が終わり、幕が下りた。観客から大きな拍手が湧き起こる。真澄も必死に拍手した。 蓮杖、素晴らしかった。本当に素晴らしかった。--- 公演が終わり、真澄は楽屋口へ向かった。 蓮杖から、「公演が終わったら楽屋に来てほしい」と頼まれていた。真澄は緊張しながら受付で名前を告げると、案内されて楽屋の奥へと進んだ。 廊下には独特の匂いが漂っていた。白粉、鬢付け油、お香。歌舞伎の楽屋特有の、濃密
これは真澄が蓮杖のファンだった頃の思い出。 真澄が初めて蓮杖を観たのは、二年前の春だった。 会社の先輩、佐々木さんに誘われて、歌舞伎座に行った日。真澄は正直、あまり乗り気ではなかった。「歌舞伎って、古臭くない?」 そう思っていた。 しかし、舞台が始まった瞬間、真澄の考えは一変した。--- 花道から登場した蓮杖。白拍子の姿で、優雅に歩く。 その美しさに、真澄は息を飲んだ。 これは、本当に人間なのだろうか。人形のように完璧で、しかし生命力に満ちている。 舞が始まると、真澄は完全に魅了された。 蓮杖の手の動き、足の運び、目線の送り方。すべてが計算されていて、しかし自然だった。 真澄は、生まれて初めて「芸術」というものを理解した気がした。--- 公演が終わり、真澄は放心状態だった。「どうだった?」 佐々木さんが尋ねた。真澄は言葉が出なかった。「……すごかった」 それだけしか言えなかった。「でしょう? 鳳凰院蓮杖、素晴らしいわよね」「鳳凰院蓮杖……」 真澄はその名を繰り返した。忘れられない名前になった。--- その日から、真澄の推し活が始まった。 まず、蓮杖のことを調べた。 鳳凰院家は、江戸時代から続く歌舞伎の名門。蓮杖は、その跡取り息子。幼い頃から英才教育を受け、十代で女形として舞台デビュー。 現在二十八歳。若手女形のホープとして、業界でも注目されている。 真澄は、蓮杖の過去の公演のDVDを買い漁った。雑誌の特集記事も全部読んだ。 そして、次の公演のチケットを取った。--- 二回目に蓮杖の舞台を観たとき、真澄は確信した。 この人が、自分の「推し」だ。 それから、真澄は蓮杖の公演には必ず足を運んだ。
十二月に入り、東京は本格的な冬を迎えた。 真澄は毎日、蓮杖の家に通うようになっていた。会社の仕事が終わると、まっすぐ彼の元へ向かう。朝食と夕食の準備、掃除、洗濯。そして、蓮杖の話し相手になること。 それは、奇妙な生活だった。 表向きは、真澄は蓮杖の「家政婦」のような存在だ。しかし実際は、もっと曖昧な関係だった。蓮杖は真澄に心を開き、舞台の悩みや、亡き母への想いを語った。真澄もまた、自分の日常や、仕事の愚痴を話すようになった。 二人は、友人のような、家族のような、しかしそのどちらでもない、不思議な距離感で暮らしていた。 そして、真澄の心は日々揺れていた。--- ある夜、真澄は居間で一人、考え込んでいた。 蓮杖は風呂に入っている。真澄は夕食の片付けを終え、ソファに座っていた。 自分は今、何をしているのだろう。 推しの蓮杖と一緒に暮らしている。それは、ファンとして最高の幸せのはずだ。しかし、真澄の心は複雑だった。 舞台の蓮杖を愛していた頃は、すべてが単純だった。遠くから彼を見上げ、その完璧さに憧れていれば良かった。しかし今、真澄は蓮杖の「素顔」を知ってしまった。 朝が弱く、コーヒーにうるさく、部屋を散らかし、稽古の後は疲れ切って無口になる。時折見せる、子供のような笑顔。母への深い想い。そして、女形としての重圧と孤独。 完璧ではない蓮杖。人間としての蓮杖。 真澄は、その姿に惹かれていた。 これは、推しへの憧れなのだろうか。それとも、一人の男性への恋なのだろうか。 真澄は頭を抱えた。「門野さん?」 振り返ると、蓮杖が立っていた。風呂上がりで、髪が濡れている。「どうかしましたか? 考え込んでいるようですが」「いえ、何でも」 真澄は慌てて笑顔を作った。蓮杖は少し首を傾げてから、真澄の隣に座った。「最近、疲れていませんか? 毎日ここに来てもらって」「大丈夫です。むしろ、楽しいですから」「楽しい?」
真澄が蓮杖の家で飼い始めた猫の話。 ある雨の夜、真澄は帰り道で子猫を見つけた。 段ボール箱の中で、小さな三毛猫が震えていた。まだ生後数ヶ月だろう。濡れた体で、か細く鳴いている。「可哀想に……」 真澄は子猫を抱き上げた。温かい。小さな命が、自分の腕の中で震えている。「このままじゃ死んじゃうわ」 真澄は迷わず、子猫を連れて蓮杖の家へ向かった。--- 家に着くと、蓮杖が驚いた顔で出迎えた。「真澄、それは……」「拾ったの。このまま放っておけなくて」 真澄は子猫を蓮杖に見せた。蓮杖は少し戸惑った顔をした。「猫か……飼ったことないんだけど」「お願い。この子、放っておいたら死んじゃう」 真澄は必死に頼んだ。蓮杖は子猫を見て、それから真澄を見た。「……分かった。飼おう」「本当!?」「ああ。でも、世話は真澄も手伝ってくれよ」「もちろん!」 真澄は嬉しくて、蓮杖に抱きついた。--- その夜、二人は子猫の世話をした。 温かいタオルで体を拭き、ミルクを飲ませる。子猫は最初は警戒していたが、次第に慣れてきた。「可愛いね」 蓮杖が呟いた。子猫は蓮杖の膝の上で丸くなっている。「名前、どうする?」「タマはどう? 三毛猫だし」「タマか。良い名前だね」 こうして、タマは鳳凰院家の一員になった。--- タマは、すぐに家に馴染んだ。 朝は真澄を起こし、夕方は蓮杖の帰りを待つ。夜は二人の間で眠る。 特に、タマは蓮杖に懐いた。 蓮杖が稽古から帰ってくると、タマは玄関まで駆けてきて、足に擦り寄る。蓮杖が居間に座ると、タマは膝の上に乗ってくる。「タマは僕が好きみ
翌朝、真澄は早起きして蓮杖の家へ向かった。 十一月の朝は冷え込んでいた。白い息を吐きながら、真澄は住宅街を歩く。昨夜はほとんど眠れなかった。これから始まる生活への期待と不安が入り混じり、一晩中頭の中をぐるぐると回っていた。 鳳凰院家の門の前に立つ。インターホンを押すと、すぐに蓮杖の声が聞こえた。「はい、どうぞ」 門が開く。玄関まで歩いていくと、蓮杖が出迎えてくれた。 しかし、そこにいたのは昨日とはまったく違う蓮杖だった。 髪はぼさぼさで、目は腫れぼったく、白いTシャツとスウェットパンツという、およそ「歌舞伎役者」とは程遠い姿。「おはようございます……」 蓮杖の声は低くしゃがれていた。明らかに寝起きだ。「お、おはようございます」 真澄は動揺を隠せなかった。これが、あの舞台で美しく舞う蓮杖と同じ人物なのだろうか。「すみません、こんな格好で。朝は弱いんです」 蓮杖は気まずそうに頭を掻いた。その仕草が妙に男性的で、真澄は戸惑った。「い、いえ。では、朝食の準備をしますね」「お願いします。コーヒーも淹れてもらえますか? 豆は台所の棚に」「コーヒーですか?」「ええ。目が覚めないと稽古に行けないので」 真澄は台所へ向かった。棚を開けると、確かに高級そうなコーヒー豆の袋がいくつも並んでいる。ブルーマウンテン、キリマンジャロ、モカ。「どれを使えば……」「今日はブルーマウンテンで」 後ろから蓮杖の声がした。振り返ると、彼が台所の入り口に立っていた。「コーヒーには少しうるさいんです。豆の挽き方も、淹れ方も。母がコーヒー好きで、子供の頃からずっと一緒に飲んでいたので」「そうなんですか」 真澄はコーヒー豆を手に取った。豊かな香りが広がる。「ミルはそこに。中挽きでお願いします」 蓮杖の指示に従って、真澄はコーヒー豆を挽いた。ゴリゴリという音が台所に響く。「良い音ですね」 蓮杖が微笑んだ。その笑顔は、舞台で見せる優美な笑顔とは違う、どこか子供っぽい無邪気な笑顔だった。 真澄はコーヒーを淹れた。ドリップする湯の温度にも気を配る。蓮杖はその様子を黙って見ていた。「できました」「ありがとうございます」 二人は居間に戻り、コーヒーを飲んだ。蓮杖は一口飲んで、満足そうに目を細めた。「美味しい。門野さん、コーヒーの淹れ方を知っているんですね」